ゆりよしブログ

YURIとYOSHIが心で感じ、頭で考えたことを飾りっ気なく綴るブログ

    

『声なき民』という問い

2017年3月31日 毎日新聞夕刊の2面。

『作家、作詩家・なかにし礼さんに聞く 自分の言葉、取り戻そう 「二重思考」から抜け出せ/エロスは平和を守ること』 

 

なかにし礼の問いが重い。

 

まずは気になった部分の記事を引用。

 

 「言葉が失われつつある。日本人は自ら『声なき民』でいることを選んでいるのではないか」。東京・赤坂にある会議室で、なかにしさんがこう切り出すのを聞いて、正直、戸惑った。

 インターネットの隆盛で個人が意見表明するハードルは低くなった。むしろ言葉にあふれているとも言えるのではないか。

 そんな疑問を察したかのように、なかにしさんは「他人のものとは違う、自分の言葉でなければいけない。でも今あるのは、これだけ」と、親指を立て、フェイスブックの「いいね!」をまねてみせた。「他人の意見に『いいね!』と言って意見表明したつもりになっている。これでは言葉を失っているのと同じです。言葉の、そして『個』の喪失です」。部屋の空気が、より一層重くなる。

(中略)

 「言葉人間」の作家は危惧する。「確かに日本は憲法で、思想の自由も言論の自由も保障され、戦前のような言論統制があるわけではない。しかし、アンケートを取れば『どちらでもない』と答える人が極端に多い。人と異なる意見を口にするのを避けようとして、あるいはネット炎上におびえて、原発問題に、死刑制度に、改憲に、自分の良心に照らしてイエスかノーか、声を上げられなくなっている。ノーだがイエスでもある、などとごまかしてはいないか」と。

 

http://mainichi.jp/articles/20170331/dde/012/040/004000c

 

 

日本人の答えるアンケート結果には、異常に「わからない」「どちらでもない」が多いことは、私も以前から気になっていた。

 

「好き」か「嫌い」かを問うアンケートで8割以上もの人が「わからない」を選択したことを知ったとき、どうして自分の好き嫌いが「わからない」のかが「わからない」と首を傾げた。

 

しかし、Facebookの『いいね』を個の喪失、言葉の喪失と捉える視点はなかったなぁ。

 

おもしろい。

 

たしかに、他人の投稿に『いいね』をするだけで自分の意見を表明したような気分になっているのかもしれない。

 

twitterFacebookの普及で「言葉」が溢れたところで、人々のリテラシーや判断力には何の影響も与えられてないのかもしれない。

 

判断材料は増えたんだろうけど、ね。なんでだろう。

 

誰もがメディアの役割を果たせる時代になって、責任の生じない範囲内なら何でも自由に、それも大きな声で言えるようになった。

 

批評家やコメンテーターばかり増えて、自分の言葉や行動に責任を取る人はどこへやら。

 

そういえば、政治も「責任の所在」で揉めてばかり。

 

豊洲もそう。森友もそう。オリンピックだってそう。

 

 

ああ、これをいい教訓としよう。

 

そして、『声なき民』が声を出せるようになるにはどうしたらいいのか、考えてみよう。

 

国民が自らの思考力や判断力を失ったなら、政治を感情が支配してしまう。

 

空気が政治を変えてしまう。

 

そんなのいやだ。

 

 

 

 

 

Thank you for reading...