ゆりよしブログ

YURIとYOSHIが心で感じ、頭で考えたことを飾りっ気なく綴るブログ

    

オス・メス・人間・プロの4類型

こんばんは。

YURIです。

 

私は中学から大学までの10年間女子校で過ごしました。

 

大事な思春期を女子だけの空間で過ごしたせいか、「人」に対して独特な分類を持つようになってしまいました。

 

(今は共学の大学院生です。男女混合社会に放たれました。)

 

女子校出身の人にもなかなか理解されないのですが、ブログに書いてみます。

 

共感してくれる人がいるかしら。

 

人間の4類型

私の中では、人間は4つのタイプに分けられます。

 

1.オス 

  =彼氏、夫

 

2.メス

  =道ですれ違う女の子。あまり親しくない女の子。女の子アピールが強い女の子。

 

3.人間

  =彼氏以外の男の人

  =大好きな女友達

 

4.プロ

  =プロフェッショナルで仕事をしている人

 

 

さらに詳しく説明します。

 

オスとは

これは最も単純。彼氏や夫といったパートナーのことです。

 

つまり、私にとってオスは世界でたった一人ということになります。

 

分かりやすいですね。

 

メスとは

簡潔に言うと、仲のいい女友達「以外」の女の子のことを指します。

 

なぜなら、親しい女友達に対しては性別を意識したことがないからです。

 

性別の枠組みを超越して親しい…といいますでしょうか。

 

逆に、私が「メス」だと意識してしまうような女の子は、私の少し苦手なタイプだということになります。

 

積極的に性別をアピールする人は、男女問わず得意ではありません。

 

人間とは

ここにきて、話がやや複雑になります。

 

まず分かりやすい方から。

 

親しい女の子はこの類型に属します。

 

理由は前に述べた通り、仲の良い女の子は性別の区分けを超えた存在だからです。

 

次に、ややこしい話。

 

彼氏以外の男の人は、「人間」類型に入ります。

 

つまり、この世のほとんどの男性はこの類型に当てはまるということです。

 

そもそもなぜ「人間」類型を作ったかというとそれは、男性への緊張感を脱ぎ去るためでした。

 

その辺にいる人のことを「男性」だと意識した瞬間に、道も歩けなくなるし、電車も座れなくなる。

 

緊張して前も向けない。どこを見ればいいのか分からない。

 

こじらせ度MAXのときは、友人に「今日どうやってここまで来たの?すれ違った男の人たちのことどう思った?どこ見てここまで来た?」と質問する程でした。

 

これでは日常生活に支障がでてしまう・・・!ということで、男の人のことを「男性」だと意識するのを意識的にやめ、「人間」というカテゴリーに押し込んだのです。

 

まるでピアノの発表会での緊張を和らげるためにオーディエンスを「ナスだ!」「かぼちゃだ!」と自らに言い聞かせるように。

 

この「人間」類型を作ったお陰で、生きるのが幾分か楽になりました。

 

プロとは

最後に、プロについて。

 

プロとは、プロフェッショナルに仕事をする人のことで、これまでの類型とは少し色が異なります。

 

ガソリンスタンドのお兄さん、アスリート、学校の先生・・・多くの人が何かしらのプロですね。

 

正しくは、皆それぞれがプロとしての顔を持っている、ということになるでしょうか。

 

私は、プロに性を見いだすのが好きではありません。

 

私にとって、プロは無性生物です。

 

いやしかし・・・意味わかりませんね。具体例を出します。

 

たとえば、ラーメン屋さんに行ったとします。

 

そこで女子大生が、こそこそと「ねえ、どのお兄さんがタイプ?」と話し始める。

 

私としては、これはもうアウトです。

 

プロに対してジャッジをくだすのであれば、仕事の質を評価すべきなのです。

 

ラーメン屋さんを舞台とするなら、湯切りの具合とか?手際の良さとか?そういう要素が見られるべき。

 

なのに、多くの人は外見で、それも主に顔で、プロをジャッジしようとする。

 

そんなのプロに対して失礼じゃないか!!!というのが、私の持論です。

 

頑張るプロに色眼鏡で見ないで欲しい・・・それが私の思いです。

 

(まぁそんなことを言ったら、男性アスリートを応援する女性ファン、女性アスリートを応援する男性ファンも減ってしまいそうですが。)

 

 

ということで、あまり理解されない私の4類型を書いてみました。

 

どうでもいい話を長々と。

 

お読みくださった方、ありがとうございます。

 

 

 

『声なき民』という問い

2017年3月31日 毎日新聞夕刊の2面。

『作家、作詩家・なかにし礼さんに聞く 自分の言葉、取り戻そう 「二重思考」から抜け出せ/エロスは平和を守ること』 

 

なかにし礼の問いが重い。

 

まずは気になった部分の記事を引用。

 

 「言葉が失われつつある。日本人は自ら『声なき民』でいることを選んでいるのではないか」。東京・赤坂にある会議室で、なかにしさんがこう切り出すのを聞いて、正直、戸惑った。

 インターネットの隆盛で個人が意見表明するハードルは低くなった。むしろ言葉にあふれているとも言えるのではないか。

 そんな疑問を察したかのように、なかにしさんは「他人のものとは違う、自分の言葉でなければいけない。でも今あるのは、これだけ」と、親指を立て、フェイスブックの「いいね!」をまねてみせた。「他人の意見に『いいね!』と言って意見表明したつもりになっている。これでは言葉を失っているのと同じです。言葉の、そして『個』の喪失です」。部屋の空気が、より一層重くなる。

(中略)

 「言葉人間」の作家は危惧する。「確かに日本は憲法で、思想の自由も言論の自由も保障され、戦前のような言論統制があるわけではない。しかし、アンケートを取れば『どちらでもない』と答える人が極端に多い。人と異なる意見を口にするのを避けようとして、あるいはネット炎上におびえて、原発問題に、死刑制度に、改憲に、自分の良心に照らしてイエスかノーか、声を上げられなくなっている。ノーだがイエスでもある、などとごまかしてはいないか」と。

 

http://mainichi.jp/articles/20170331/dde/012/040/004000c

 

 

日本人の答えるアンケート結果には、異常に「わからない」「どちらでもない」が多いことは、私も以前から気になっていた。

 

「好き」か「嫌い」かを問うアンケートで8割以上もの人が「わからない」を選択したことを知ったとき、どうして自分の好き嫌いが「わからない」のかが「わからない」と首を傾げた。

 

しかし、Facebookの『いいね』を個の喪失、言葉の喪失と捉える視点はなかったなぁ。

 

おもしろい。

 

たしかに、他人の投稿に『いいね』をするだけで自分の意見を表明したような気分になっているのかもしれない。

 

twitterFacebookの普及で「言葉」が溢れたところで、人々のリテラシーや判断力には何の影響も与えられてないのかもしれない。

 

判断材料は増えたんだろうけど、ね。なんでだろう。

 

誰もがメディアの役割を果たせる時代になって、責任の生じない範囲内なら何でも自由に、それも大きな声で言えるようになった。

 

批評家やコメンテーターばかり増えて、自分の言葉や行動に責任を取る人はどこへやら。

 

そういえば、政治も「責任の所在」で揉めてばかり。

 

豊洲もそう。森友もそう。オリンピックだってそう。

 

 

ああ、これをいい教訓としよう。

 

そして、『声なき民』が声を出せるようになるにはどうしたらいいのか、考えてみよう。

 

国民が自らの思考力や判断力を失ったなら、政治を感情が支配してしまう。

 

空気が政治を変えてしまう。

 

そんなのいやだ。

 

 

 

 

 

Thank you for reading...